新エネ博士ダムダムダンのカンベンしてくださいよォ
平成方丈記 M田隆道 06年4月号〜
なまはげの里から 荒尾美代 05年10月号〜06年2月号
ロンドンから おちあいはな 04年10月号〜05年9月号
ギリシャから ド・モンブラン・むつみ 03年10月号〜04年9月号
ボストン便り 椎名梨音
ルーマニア紀行 石原道友
ブレーメン便り 宇江佐 湊
オランダ事情 益川みる
ロンドンの掟 石関ますみ
友人のY氏は若き芸術家である。芸大大学院を卒業後、オランダへ留学。そのままここに残り、今はロッテルダムを拠点にして活動している。日本人である彼がオランダにこだわるのには理由がある。ここが日本より多くの活動の機会を与えてくれるからだ。
オランダは芸術家に寛容な国である。新進気鋭の若き芸術家たちは創作発表の機会に恵まれ、国や市は資金や会場を提供することでバックアップしてくれる。
役所に申請し許可が出れば、オランダの至る所にあるアートスペースと呼ばれる公営の会場を、どのように使おうと芸術家の自由。これが日本だと壁に穴を開けるのもままならないほど制約が多すぎて、結局何もできないのだそう。
Y氏も先日、アートスペースで個展を終えたばかり。「まあ、僕がこうしてオランダでやっていられるのも、オランダの先人達が勝ち取った権利のお陰なんだよなあ」
久し振りに我が家で一緒に鍋を突きながらこんな話を聞かせてくれた。
1970年代、オランダは不況で芸術にお金を出す者などいなかった。無名の若き芸術家たちは貧しく、作品を発表する場もない。そこで彼らは空き家の無断占拠という当時の若者たちの集団現象の流れに乗って、自分たちの創作発表の場を獲得していったのだ。
やがて、元々反体制運動の延長上にあったこの動きは組織化され、芸術家たちの自主運営によるアートスペースの誕生ということになる。
当時、空き家の無断占拠が半ば公認されていたのは、20年代に建物に対する投機を防ぐため定めた「空き家の不法な占拠は刑事罰の対象とはされない」との条文によるものらしい。86年に法律が改正され、不法占拠者たちは立ち退かざるを得なくなったが、既に社会的に認められていたアートスペースでの芸術家たちの活動は、国や市が建物ごと買い取り、彼らに無料で貸与する形で生き存らえ、今に受け継がれているという。
公的スペースとは言え、実際の運営は今も芸術家たち自身で行なわれ、そのネットワークは他の欧州諸国の芸術家たちにまで及ぶらしい。彼らは異文化に触れ自らを高めようとする。決して金にはならぬが、芸術家としてこれほど満たされる環境はない、とY氏は言う。
実は、国の芸術支援の額だけで言うなら、オランダよりは日本の方が多いのだそうだ。折角、立派な建物を造っても、肝心の芸術家の活動の自由を奪うような制約が多過ぎて、人材が育たないらしい。歯痒い気持ちで「箱物行政」に憤る私に、Y氏はいつもの冷静さでこう言ったのだった。「だからと言って、我々芸術家が日本で何をしているかと言うと、実は何もしていないんだよね」。
オランダ在住8年の彼の心はこうしてオランダと日本の間をさ迷っている。若き芸術家の悩みは深い。
(ロッテルダム在住)―「オランダ事情」は今回で終了します。
アムステルダムにあるコンセントヘボウは、そのアコースティックの良さで世界的に有名なのだそうだ。
昨年秋に大ホールの改装工事が完了したというので、物見遊山のつもりでピアノコンサートへ出かけた。
世界に名だたるホールのクラッシックコンサートとなれば、やや力も入るというもの。久しぶりにスーツに身を包み行ってみた。期待の大ホールは、控えめな装飾と明るいクリームの色調が印象的でなかなかいい。…でも何なんだろう?何かが違う。
やがて、私の目は、器のホールではなくて、そこにいる聴衆に注がれる。皺の寄ったズボンにセーターかシャツ。スーツやネクタイはおろか、ネクタイやジャケットすら見当たらない。そこにはいつもの見慣れた普段着のオランダ人ばかり。
私はコンセルトヘボウの響きに舞い上がって、すっかり忘れていたのだ。そこがオランダのコンサートホールであることを。普段着で決めたオランダ人の中、1人気負ってスーツを着ている自分が気恥ずかしいといったらない。
オランダ人は飾らない。それは相手が女王様であれ、場所が世界のコンセルトヘボウであれ、変わるものではないのだ。この徹底振りは見事としか言いようがない。
外見ばかりでなく、その言葉もあまりに飾らないため、よく誤解を受けるらしい。例えば、口のきき方が粗野であるとか、言い方が失礼であるとか…。
ちなみに、私はオランダ人を左様に思ったことは1度もない。オランダ人の言葉に対する誤解は、多くの外国人が英語を媒介してオランダ人と話すところに、その原因があるのではないかと思っている。
いくら堪能なオランダ人とて、英語はやはり外国語なのだ。オランダ語を英語に直訳すると、どうも雑な物の言い方に響くらしい。
ピアノを聴きながら、聴衆のマナーがとてもいいことに感心しつつ、そんなことに思いを巡らせていると、ものすごい拍手喝采と同時に辺りが暗くなった。
最後の演奏が終わって、それまで静まりかえっていた聴衆が全員立ち上がったので、出遅れた私がオランダ人の林の中に埋もれてしまったのだ。
全員でいっせいにするスタンディングオベイションは初めてだったが、やってみると、これが楽しい。
息苦しい事はぬきにして、演奏会そのものを皆で楽しもうというこの一体感。さっきまでの気詰まりは何処へやら。愉快、愉快。
一体、大きな身体を揺らさんばかりに、只管喝采を続けるオランダ人をどうして「失礼」だなんて言えるのだろう。
1度彼らの中に入ってみれば、見えてくる。飾られた多くの言葉や外見よりも彼等が大切だと信じているもの。皆で分かち合う喜び、一体感。コンセルトヘボウは心にも良く響く。
(ロッテルダム在住)
オランダではどの町の中心にもマルクトと呼ばれる広場があって、それを囲むようにして市役所や教会が建っているのが普通である。
そして、どの町のマルクトにもその名(マーケット)が示すとおり定期的に市が立つ。アムステルダムの花市、ハウダのチーズ市など有名なものは観光の要素も多分に含まれていて、結構な賑わいとなる。
しかし、私の一番のお気に入りは、我がロッテルダムの「ブラークマルクト」である。
「ブラーク」にはオランダ語で「燃える」という意味があるそうだが、ロッテルダムの町は第二次大戦でドイツの大空爆を受け、その殆どを焼失したという過去を持つ。
その後、町を復元するのではなく、全く別の新しいものに造り変えてしまった。そのため、ロッテルダムは今や現代建築の宝庫ということになっている。当然、古い趣のマルクトもない。
あるのは、鉄道を地下に通した跡地に出現した巨大な広場のみ。その幅50メートル、長さ400メートル。傍らには、辛うじて焼け残った数少ない建物の一つであるセントローレンス教会が、唯一昔の姿を伝えている。この長方形の短辺に当たる南端に、曲線と直線を駆使した現代建築のブラーク駅と市立図書館がへばり付いている。
ここに火曜と土曜の週2日、生鮮食料品、生活雑貨、お花、古物を売る店のテントがびっしり軒を連ねる。その数二百軒以上。このブラークマルクトは五感を全開にして楽しむ不思議な体験空間である。
まず、路面電車か地下鉄でブラーク駅まで着くや、降りる人の波に乗って流れると、芸術的現代建築がただの駐車場と化す現実を目のあたりにする。目を少し先に移すと六つのテントの列が現れる。これが、この先400メートルも続いていることを思い、暫し酔う。
ここで少し気合を入れてから、陣中に飛び込む。店先でお上品は禁物である。次々と横入りするダッチパワーに怯んでいては、10分待っても大根1本すら買えない。
尤も、しばらく通い続けると、日本人という珍しさも手伝ってか、顔を覚えてくれる店主もいて、向うから声をかけてくれるので、そのためのエネルギーは消耗せずに済むようにはなる。
贔屓の店が決まると、益々楽しい。「今日は寒いから食べて行きなさい」と、こちらでチーズを一切れ、あちらでみかんを一つ。そのうち、野菜、果物を両手で持ちきれるだけの量ぐらいだと、何を買っても13ギルダー(約850円)という不思議な現象まで起こる。
雑多な香り、響く売り声、人の波。それら全てを包み込むようなに教会のカリヨンが時を告げる。そして何より嬉しいのはロッテルダマー(ロッテルダム市民)の心意気。
一度は焼け野原となったその場所に今日もロッテルダマーの息吹がみなぎる。ブラークマルクトは止められない。
(ロッテルダム在住)
「オランダに学べ」が最近の流行である。これは国の経済政策の話。高失業率に悩むドイツ等、他の欧州諸国が好調なオランダの経済政策をコピーしようと懸命になっており、日本も注目し始めたと聞く。
オランダは80年代初頭の惨状から見事に立ち直った。当時は社会・経済が活気を失い、オランダ病の伝染を隣国が懸念するといった屈辱的な扱いも受けた。改革の結果、立場は逆転。景気は90年代順調に拡大、失業率は他のEU諸国が上昇しているのに対しオランダは大幅に減少した。
復活のシナリオは「ポルダーモデル」と呼ばれている。ポルダーとは干拓地の意味だが、この名の定義も実は後講釈であって、最初から完全なシナリオがあった訳ではない。官民学が協調して現実を分析し、懸案を1つ1つ片付けた総合がポルダーモデルと称されているのである。
その中で最も重要視されているのが、1982年の「ヴェッセナー合意」と呼ばれる全国レベルの労使間協定だが、これは解雇抑制と賃金上昇凍結というユニークな合意であり、その結果オランダ企業の国際競争力が上昇したと言われる。
ポルダーモデルは世界から注目されているが、この国のリーダーは決して有頂天にはならない。逆に冷静に分析してみせる。
コック首相はドイツ人記者団とのインタビューで「ポルダーモデルなるものが実際あるとしてもそれは輸出不可能だ」と述べている。オランダは小国で貧富の差が余り無い社会だから成功したというのが彼の見方だ。
近隣諸国が「オランダに学べ」と言っているのに「それは無駄」という首相も首相だが、これは非常にオランダ人らしい。彼等は感情よりも理論の民であり、問題分析力は1級品。おまけにどう思われようとも相手の懐に直球を投げ込んでくる。そうすることがオランダ人の誠意なのだ。
ここに住む者の感覚から想像するに、コック首相は、質素を好む国民性だからこそ成功したということを最も強調したかったに違いない。実際、物質的な豊かさでは独仏の方が上である。こちらのテレビコマーシャルで、高級車に乗る経営者よりも小型車に乗る経営者の方が信頼されるという自動車の広告があったが、どうもこの国では受けないらしい。
贅沢を嫌う文化はキリスト教カルバン派の影響と言われているが、本当にオランダ人は金をかけず人生を楽しむ術を知っている。だから賃金凍結で隣国よりも所得水準が低くなっても我慢ができるのだろう。
否、我慢さえしていなかったかも知れない。果たしてドイツ人そして日本人がこうした状況に耐えられるであろうか。
コック首相の発言は暗に、ろくに自己分析もせず流行の理論やモデルをコピーすれば良しとする最近の風潮を批判しているようにも受け取れる。やはりオランダから学ぶべきものはある。
(ロッテルダム在住)
近所の美味しいパン屋は、主人の愛想のなさが玉にキズ。
ところが、そのご当人、最近やけに機嫌がいい。先日も店番の大皿に山と積まれたスペキュラース(甘く香辛料の効いたビスケット。季節限定品)を袋に詰めながら鼻唄まで披露して。
おまけに「楽しい週末を」などと言われて、こっちが拍子抜けしてしまったくらいだ。
帰る道すがら、私は思った。「これはシンタクラース効果に違いない」
去る11月14日のシンタクラース・オフィシャル・アライバル・デイに、ロッテルダムでも盛大な打ち上げ花火でお祝いしたばかりだった。
このシンタクラース、日本でお馴染みのあのサンタクロースとは別物と考えていいくらい違う。
その出で立ちは、白く長い顎鬚に、赤い法衣、冠、金の杖。正にオリジナルの聖ニコラスを彷彿させる。赤い鼻のトナカイや橇などとんでもない。元聖人は白い馬に乗っておられる。
毎年のご訪蘭に備えて1年の殆どをスペインで過ごされ、11月半ばにムーア人のツヴァルトピーター(黒人のピーター)を従えて船でご訪蘭。そして12月5日の聖ニコラスの日迄、子供達のためにご滞蘭になる。と言われているのだが、この辺の話から「聖人」の色が薄くなって「シンタクラース」ち親しみを込めて呼ばれるに至ったかと思われる。
それでも国賓級の重要人物とみえて、今年、我が街には、ロッテルダム港のパトロール船に乗り(スペインから?)ご到着。桟橋で出迎える正装した大人達と一通り挨拶を交わした後、紹鴎様さえ歩いてなさるパレードを、馬車に乗ってなさるところがただ者ならず。
従者のピーターは子供達にお菓子を配るのだが、時々いたずらもするので、怖がってなかなか近寄れない子もいる。
そんな子の家にも、夜、靴の中に人参(シンタクラースの馬の餌)を入れておけば、夜中にこっそりピーターが来て、換わりにお菓子を入れていってくれる。黒い手形も家のあちこちに残して。
このシンタクラースの贈り物は甘いものばかりではない。代わりに手紙が入っている事もある。
「ウイムはこの1年サッカーばかりしてお勉強しませんでしたね」とか「カリーンはおふざけが過ぎましたね」等々。こちらはかなり辛口。
しかもその手紙を家族や友達の前で読み上げなければならないというのだから、これは厳しい。
こうしてオランダの子供たちは何でも御見通しのシンタクラースの存在を信じ、良い子になろうと努力するのだとか。あの威厳ある姿と大真面目な大人達を見れば無理もない。
あの日、スペキュラースの匂いに誘われて昔の甘い(苦い?)思い出がパン屋の主人の脳裏に蘇ったのか。シンタクラースは彼にどんな贈り物をしたのだろう。
どうかずっとシンタクラース効果が続きますように。
(ロッテルダム在住)
セリーナは褐色の丸顔に大きな黒い瞳を輝かせて、習い立ての日本語で私にこう言ったのだ。
「私の両親はスリナム人です」と。
彼女が学ぶエラスムス大学経済学部日本経済学科の学生の顔触れは、見事に今のオランダを象徴している。中国系、インドネシア系、スリナム系、それに白人系の彼等は皆オランダ生まれのオランダ人である。
セリーナのような2世も含めれば、ロッテルダムの人口約100万人のうちの4分の1までが、移民で占められている。
南米のスリナム(旧オランダ植民地)からの移民は特に多く、トルコ系、モロッコ系が続く。
オランダは昔から移民の受け入れに寛容な国だったようだ。15〜16世紀にユダヤ系の移民やフランスの新教徒(ユグノー)を受け入れた。そして、この移民達が、16世紀オランダ黄金時代の担い手になったのだ。
戦後復興が軌道に乗り隣国ドイツとともに経済発展し始めた60年代、オランダは旧植民地から出稼ぎ労働者として移民を受け入れた。そして、彼等の殆どが一族を呼び寄せ、そのまま残った。
その後の政府が賢かったのは、彼等の経済的自立をバックアップし、子供たちにはオランダ人として普通の教育を受けさせたことだ。このコストは国民の税金で賄われるのだが、私の知るオランダ人は皆、それを当然の選択と考えているようだ。
それは人道的見地からよりも、長い目で見た場合、最も社会的コストが掛からないという現実主義的発想に依るところが大きいと思っている。
この政策の今のところ成功しているようだ。移民の生活水準は高いとは言わないまでも、さほど悪いようには見えない。
尤も、問題が全く無いとは言わない。80年代後半から90年代にかけてトルコ系、モロッコ系移民の数が急激に増加し、現在、合法移民だけでも170万人。オランダの全人口1550万人の10%以上を占めるまでになった。
いくら、移民に寛容なオランダ人とは言え、この急激な異文化の流入が摩擦を生まない訳がない。今世紀の初め、ニューヨークのハーレムで起こったのと同じ現象が、ロッテルダム西部でも起こりつつある。つまりトルコ系、モロッコ系の移民の集中居住を嫌う白人系オランダ人が郊外へ居を移し始めたため、この地域の経済活動が停滞し環境が悪化して来たのだ。
早くも、市はこの地域の経済振興と住環境の整備に取り組み始めた。
国内の大学にはこの問題を専門に研究する学部があり、政策提言までしているとか。知人がそこの大学院生で、米国を訪問して、その研究の大切さを再認識したという。
「今、対策を打っておかないと、自分達のコミュニティーが壊れ住みにくい国になってしまう」
こうした若者やセリーナのような移民2世を生む社会風土というものに、改めてオランダの魅力を感じている。
(ロッテルダム在住)
飛行機がスキポール空港に着陸体制に入ると、眼下には水路を張り巡らせた牧草地とアイセル湖が広がる。
オランダ人の乗客は皆、高い鼻を窓に押し付けるようにして、故郷の風景に見入っている。
自らの手で造り上げてきた国土をいとおしむオランダ人たち。
オランダに帰って来たな、と思う瞬間である。
「世界は神が創り賜うたが、オランダはオランダ人が造った」とは、言い得て妙である。
それは、自惚れでも何でもない。オランダの国土の約6分の1は、13世紀以来の干拓事業でオランダ人が本当に造りだしたものだ。
一番新しい国土はアイセル湖を挟んで、アムステルダムのあるノースホラント州と向かい合うフレーボラント州で、1986年の完成。アイセル湖に浮かぶ島のようだ。
このフレーボラント州の町から、わが家に新しいバスタブが、はるばる運ばれてきたことがあった。
取り付け工事が終わって、確認書にサインをする段になって初めて、そんなに遠くから来たことが分かって、驚いた。
「ドレンテンって、どこですか?」
「新しい町だよ。フレーボラントの。ここから車で2時間くらい。僕たちは海面下4メートルに住んでいるから、水回りのことなら任せてよ。はっはっはっ!」
後で家主さんに聞いたところ、今どき、バスタブだけを作ってくれる所がロッテルダム近郊にはなく、漸くドレンテンにお店を見つけたとのことだった。新しい土地での新種のビジネス。新しく国土を造り、経済的な国力をつけるオランダの底力を思った。
その後、たまたま、フレーボラントを車で通ることがあった時、やはりあのバスタブ屋さんのことを思い出した。
フレーボラント州の中央を縦断する海面下の高速道路は、両側をダイクと呼ばれる堤防で頑丈に守られている。確かに水回り良し。
ダイクの向こう側には、アイセル湖から吹く強風を利用する発電用の風車が数十基も並んでいて、なかなか圧巻である。
バスタブ屋さんが誇らしげに語っていたように、美しい森やお花畑、もちろん、サイクリング用の道もある正統派の新しいオランダである。
オランダの国土事業で優れていると思うのは、自然環境を守ることを大前提にしていることだ。
北海に面した南部のゼーラント州には、国土を水害から守るための大防波堤があるが、海の生態系を維持するために北海への水路を開けてあるので、今でも地元の漁師さんは漁に出ることができるのだそうだ。
そのために莫大な税金が投入されるのも、国民は納得している。
それは、「国は自らの手で造り、守っていくもの」という精神が、何世紀にも渡り受け継がれてきたからだろう。
オランダ人の足は、海面下でも、しっかり地に着いている。
(ロッテルダム在住)
オランダの旅行代理店は楽しい。
お店に入って、まず人目を引くのがカウンターの向こうの壁一面に並べられているパンフレットの多さだ。
それは、旅行好きなオランダ人の多様なニーズに対応して、地域別、目的別、時には年齢別に多くのツアーが企画されているからである。
なかでも、面白いのはアドベンチャー旅行といって、キャンプ、サイクリング、サファリなどが主目的で企画されているツアーである。
各々のツアーには、ツアーリーダーというその道の専門家が付いて、食料の調達、荷物の搬送、宿の手配などをしてくれるので、手軽に冒険が出来るといった趣向だ。
それでも、自転車や徒歩で山道を移動したり、テントを張って一夜を明かしたりしなければならないことも多いので、それなりの覚悟が必要になる。
オランダ人の友人はツール・ド・フランスとおなじコースを自転車で巡るツアーのために、毎日30キロの道のりを自転車で通勤して、備えていた。
旅の相談に訪れる客を見て(聞いて)いても、どんな事がしたいのかがはっきりしているのが印象的だ。
こういったところは、場所だけ決めて、後はお決まりのコースを巡る観光を旅行とする日本人とは違っている。
旅行代理店の人は、数あるパンフレットの中から各々の希望に合ったツアーを探し出すスペシャリスト。
私の贔屓の店の人は、費用、時期、宿泊エリアに関して最善の選択ができるように的確なアドバイスをしてくれる。
初めは航空券の手配で訪れた私も、すっかりそのサービスの良さに魅了されてしまい、この1年、随分通い続けた。
その甲斐あってか、今ではコーヒーをいただけるまでになった(これは、オランダでは、破格のサービスである)。
この夏はオランダ人並に3週間の休みがとれたので、何かツアーに参加してみようということになって、選んだのが、ノルウェー南部を周遊する旅。勝手に名付けて、『ノルウェーオリエンテーリング』。
実のところは、それぞれ、決められた宿泊地を車で巡るだけなのだが、急勾配の山道や未舗装の道を通るようにルートが仕組まれていて、それなりにスリルもあるし、素晴らしい自然に出会うことができるのが、如何にもオランダ仕様だ。
同じツアーに参加したオランダ人と、行く先々で何度も遭って、親しくなるというおまけまで付いて、なかなか楽しい旅になった。
5000キロを走破して、たどり着いたわが家ののメールボックスは3週間分の郵便物で一杯だ。
その中に、いつもの1枚の葉書。『お帰りなさい!ノルウェーはいかがでしたか?』。
つい、「次の旅はどこにしようか」と考えてしまう私は、やはり彼等にとって、『いいお客さん』に違いない。
(ロッテルダム在住)
オランダの公用語は勿論オランダ語である。英語とドイツ語の合成語のような言葉だ。
いい機会だからと、オランダ語のレッスンを受け始めて1年が経とうとしているのに、一向に話せるようにならない。
自分の無能を棚にあげて言わせてもらうと、それはオランダ人が余りにも英語が堪能なせいだ。こちらがオランダ語で十分コミュニケーションができないと見るや、敵は英語に切り替えてくる。その英語の流暢なこと。
近所のおばあさんもスーパーの店員さんも中学生ぐらいの子供も皆、英語を話せるというのは、ヨーロッパ大陸ではオランダだけではないだろうか。それは、車で1〜2時間も走らせて国境を越えてみれば実感できる。
南の隣国ベルギーでは北部の一部で同じオランダ語が話されているのに、余程の観光地でも無い限り英語が通じることはない。さらに南下して、フランス語圏に入れば忽ち、私たちは孤立無援の窮地に陥ることになる。東の隣国ドイツとて同じこと。観光都市のホテルで英語が通じないこともあった。
更に、オランダ人は、フランス語、ドイツ語も話すというのだから恐れ入ってしまう。
これは一種の国策ではないかと思うのだが、例えばテレビでは、イギリス、フランス、ドイツ各国の放送が観られるし、オランダの局でも字幕付きでヨーロッパ各国の言葉をそのまま放送している。ちなみに、フランス、ドイツの局の放送は全て自国語に吹き替えられている。
オランダの公立学校では12歳から英語を習い始める。16歳で3カ国語の外国語を選択し1年間の履修期間の後、自分の得意な2カ国語に絞り、18歳までそれらをマスターするという。
大抵、1つは英語で、もう1つはフランス語かドイツ語を選ぶらしいが、加えて、中国語や日本語に挑む余裕のある人もいるようだ。日本語学で伝統のあるライデン大学の学生は漱石や太宰を原書で読んでいるとか。
この語学力は立派な国の財産だろう。多くの外国企業がオランダ進出し、同国の好景気を支えているからだ。
「オランダは小国だから、外国語を話さなければいけないのは当然。それにオランダ語は(外国人には)難しいだろう?」と言う時のオランダ人の顔がちょっと得意気なのは、そういうことが分かっているからか。
確かにオランダは人口も面積も日本の九州と同じ位の小さな国であるが、経済力に裏打ちされた影響力は、ヨーロッパ中央銀行総裁を輩出する程の大きさだ。
そして、それは語学力に見られるように実践的な努力の賜物なのだ。
今のところは、オランダ語を話せない私に寛容なオランダ人。だが、この寛容も5年が限度とのこと。5年を過ぎても進歩がなければ、それは本人の努力不足とみなされるらしい。秋から本気で勉強し直そうかと思うこの頃である。
(ロッテルダム在住)
その日、いつもだと5時まで営業しているはずの店が、慌ただし気に次々と店を閉め始めたのは4時5分前のこと。
店主の中には既にオレンジ色のTシャツとキャップという出で立ちの者もいる。
促される様に足早に家路につく人と、オレンジ一色の完全武装でカフェに向かう人々の流れがロッテルダムの繁華街で入り乱れる。
7月4日、ワールドカップ98準々決勝、オランダ対アルゼンチン戦のキックオフまであと30分。
私も急いで買い物を済ませ、近くの電停から電車に飛び乗った。
オランダに居るお陰で、今回のワールドカップは随分楽しませてもらっている。
私はサッカーに関しては、Jリーグで日本中が湧いていた時も、全く蚊帳の外であった程のど素人なのでよく分からないが、ここに居ると、サッカーに対するオランダ人の特別な思い入れがひしひしと感じられて、それが私には面白いのだ。
開幕からここ1カ月、オランダ人との会話でワールドカップが話題にならないことはなかった。
我が日本の初戦、対アルゼンチン戦までしっかり観ていて、次の日、同じアパートの住人に「日本も結構やるじゃないか」というような事を言われ、ポンと肩を叩かれたりもした。
オレンジ色は王室のオランニェ(オレンジ)家に由来する、オランダ人お気に入りのナショナルカラーであるが、この1カ月、これが大活躍。
家々のベランダや店先、車までオレンジカラーで飾られて、気分を盛り上げている。
オランダ戦の日ともなると、オレンジ色の何かしらを身に着けた人を至るところで目にするし、テレビ中継が観られるカフェはそんな人々で一杯になる。
結果的には決勝トーナメントへ一位で勝ち進んでいるのに、「闘争心に欠けている」だの「試合内容に失望した」だのといった苦言も、期待の大きさ余ってのこと。
ここに居てそんな彼等を見ていると、サッカーを真剣に楽しむ心の土壌みたいなものが、この国の人々には深く広く浸透している事がよく分かる。
オランダ人にとってサッカーは、「息子とキャッチボールをするのが夢だ」と語る父親が大勢いた時代の、日本人にとっての野球の様なものじゃないだろうか。
休日の公園でサッカーボールを蹴りあう親子をよく見かけるし、サッカーファンの年齢層も幅広い。
その日も、オレンジカラーを身にまとった多くの老若男女が勝利の瞬間に酔いしれたことだろう。
4強入りは、オランダ人の悲願だった。
近所の子供達が外に飛び出して、通り過ぎる車に向かってオレンジの旗を振り始めた。
車はクラクションを鳴らしてそれにこたえる。
歓喜のクラクションはそれから1時間も続いた。
(ロッテルダム在住)
「本当にオランダ人は大きい!」
そうは聞いてはいたものの、昨夏、初めてスキポール空港に降り立ったときの第一印象は、やはりこれであった。
「大きい」というより「頑強である」といったほうが適当かもしれない。まず身長は、男性も女性も180センチくらいが普通で、しかも肥満はほとんど見かけず、引き締まった人が多い。
この身体は如何様にして作られるのか。
彼等は乳製品を多く取り、木の実が入ったパンやじゃがいもよく食べる。そして、何より忘れてはならないのが、彼等が愛してやまない自転車の効用であろう。
これはもう、オランダの国民的スポーツと言ってもいい。国中にフィーツパットという自転車専用道路が張り巡らされているので、自転車通勤も珍しくない。
専用の地図まであって、休日に少し遠出をすれば、大自然のなかで快適なサイクリングが楽しめる様になっている。その距離数10キロが当たり前。
ロッテルダムのような都市でも、週末には、老いも若きも愛車にまたがりフィーパットへ繰り出す光景がみられる。
これを、「正に倹約家のオランダ人好みのレジャー」とは、早計。実際にオランダで一冬越して見れば、これが必要不可欠なオランダ人の生活習慣であることが分かる。
オランダの冬は厳しい。冷たい雨風の中、当然、風邪が流行る。
しかし、オランダ人は病院へは行かない。「風邪如きはベッドで3日も寝ていれば治るだろう」と頼もしいかぎり。
しかし、実のところは、医者とアポイントメントをとっても、風邪は軽い病気とみなされて当日中に診てもらえるとは限らない上、どんなに熱があっても、医者が注射もしなければ薬も処方しないという事情のためらしい。
日本は薬漬医療との批判もあるが、その全く逆なのも如何なものか。
斯くして、医者を当てにしない徹底した自己健康管理の習慣が生まれたのだ。あの「サイクリングフィーバー」は、その習慣が高じたものに違いない。
ところで、先日ホームドクター探しをしてみて分かったのだが、オランダのホームドクターの数は少ない。
オランダ人が医者に行かないからドクターが少ないのか、又はその逆なのか。
「うちは手がいっぱいで」と断られて、3件目に漸く引き受けてもらったが、色々聞き及ぶにつけ心もとない。熱が38度もあれば頓服をもらわないと辛いではないか。
オランダ人を見習って、私も遅ればせながら健康管理を始めた。毎朝のチーズ、牛乳、ヨーグルト。
ところが肝心のサイクリングの方がなかなか難しく、蛋白質は筋肉に変わることなく、脂肪分だけが蓄積されていく始末。
たかが自転車、されど自転車。オランダ人の身体がそう語っている。
(ロッテルダム在住)
オランダの王室は国民にとても身近で人気がある。元首のベアトリクス女王は突然、市井に現れることで有名だ。
昨年の9月、エラスムス大学の構内を歩いていた時のことである。その日は新入学生の歓迎行事があり、沢山の人でごったがえしていた。
と、私の目の前を、ロイヤルブルーのワンピースに身を包んだ中年の女性が、護衛らしき者数人を従え通り過ぎて行くではないか。
「まさか」と思ったが、やはりベアトリクス女王であった。足早ながら、周りの学生に手を振りながら去って行った。
後から聞いた話では、王子(次男)がエラスムス大学を卒業した縁で訪れていたらしいが、こうした遭遇はそう珍しいことではないとのこと。
4月30日は「コーニンヘン・ダーフ」(王室の日)といって、オランダ人の最も大切な祝日である。オランダ中の町や村で女王の誕生日をお祝いして、大きなお祭り騒ぎをする日のようだ。
ちなみに、本当はこの日、母親である前のユリアナ女王の誕生日である。ベアトリクス女王はご自分の誕生日の1月31日ではなく、4月30日をオフィシャル・バースデー(祝日)として、そのまま残している。
その理由をオランダ人の友人に聞くと、「1月は厳しい冬の真っ只中、4月末の方が気候も良く、皆が楽しめるから」とのこと。
丁度、漸く見られるようになってきた春の陽光に、暗く寒い冬の間に閉ざされた心が解き放たれるような気持ちになっていたところだったので、何とも説得力のある話であった。
さて、この祝日には、女王を始めとしてロイヤルファミリーが毎年違う街を訪れパレードを行うことになっていて、テレビの中継でこの様子を見ることができるという。
そこで、人込みの苦手な私たちは初めてのコーニンヘン・ダーフを家で楽しむことにした。
パレードといっても、例によって数人の護衛をつけ、ただ歩くだけである。途中、街の人々が寸劇や踊りや伝統工芸を披露するので、「ファミリー」はその度に立ち止まり鑑賞する。沿道の人々は、自由に女王に手紙や贈り物を手渡している。
女学生のグループがダンスミュージックに乗って踊りを披露していた時のこと。学生の1人が進み出て、3人の王子に一緒に踊ろうと誘ったのには驚いてしまった。
次男と三男は学生の輪に入り、軽快なステップを披露することとなったが、さすがに第1王位継承者のウィレム王子(長男)は、従者と思われる者に制止された。
オランダの王室はその身近さ、気さくさから国民に大変人気があるが、建国の父、オランニュ公の血を引く王家の権威を失わないよう、超えてはならぬ一線だけは意識しているようだ。
それでも、街の人々の歓待の中、何と1時間半という長時間を「ファミリー」は手を振りながら歩き通したのであった。
(ロッテルダム在住)
マースズィヒト(マース川の眺望)の住人になって半年が過ぎた。この川を一望のもとに眺められるわが家の窓辺に立ち、往来する貨物運搬船の来し方行く末を想像しては楽しんでいる。
ロッテルダムの歴史はこのマース川と共にある。河口までの35キロに連なるユーロポートは、今や世界最大の貿易港となった。
マース川を通る貨物は、この港から大海を越えて異国をめざす。あの「オランダえびす」のように。
物語は今から400年前の1598年6月27日、5隻のオランダ商船が海の覇権を獲得すべく、ここロッテルダムの港を、東インドめざして出港したところから始まる。
数々の不運に見舞われ、このうち4隻は志を遂げることはなかったが、残る1隻のリーフデ号だけが2年後、日本の豊後に漂着した。
乗組員のうち、ウイリアム・アダムス(三浦按針)とヤン・ヨーステンがその後も日本に残り、幕臣となったことはよく知られている。
しかし、日本の残された「もう1人のオランダ人」がいたことを知る人は少ないだろう。
実は、それは一体の木像である。リーフデ号の船尾に乗って日本に漂着した後、あろうことか、お寺に祭られてしまう。それが「オランダえびす」である。
それから300年余り後の1926年、その「えびす」の写真を見たオランダ人牧師の驚きはいかほどであったか。そこに写っていたのは、紛れもなく神学者エラスムスの姿だったのだから。
エラスムスは私にとって教科書2行分程の存在でしかなかったが、オランダに来てから、この哲学者がオランダ人にとって身近な愛すべき存在なのだと気付くまでに、そんなに時間は掛からなかった。
彼の故郷、ロッテルダムの街には、橋に、通りに、学校に、エラスムスの名が付けられている。タクシーの運転手に「エラスムスを知っているのか」と聞かれて、答えにつまったこともある。
今となっては、リーフデ号にエラスムスの像が飾られていたのも、さもありなんと思える。
さて、この像を日本人は“日本に帰化した神様”と珍重し、長い間信じ続けてきた。
約300年後、それが思い違いであることが明らかになった時、同胞の英雄が3世紀の長きに渡り、異国の地で慈しまれてきたことを知ったオランダ人は、どんなにありがたく思ったか。
とすれば、その思い違いも、友好のため何者かに仕組まれた演出だったのではないか、と想像は膨らむばかり…。
「オランダえびす」ことエラスムスの木像は今、東京の博物館に納められているそうである。そして、そのレプリカがロッテルダム海洋博物館の、マース川を見下ろす2階の展示室に飾られている。
日蘭友好の証として。
とうとう、この日がやってきた。などと言うといささか大袈裟かもしれないが、いよいよ私の英国滞在にも終わりが近付いてきた。
実は、私の渡英が決まった当初、妻は自分のキャリアのことを考え、一緒に来るかどうか悩んでいた。が、いざ来てからはのんびりとした生活を謳歌していたため、彼女もこの生活に別れを告げるのは淋しいようである。
とは言っても、帰国となるとあれこれやらねばならないことが山積みであり、そう感傷に浸ってばかりもいられない。引っ越しの見積もりやお別れパーティーなどで、カレンダーはあっという間に埋まってしまう。
そして私達家族には何よりも気掛かりなことが1つあった。それはペットのウサギをどうするかということだった。
まだ仔ウサギのころに我が家にやってきた彼女は、きれい好きで人懐っこい。今ではもうすっかり家族の一員である。
しかし、「ペットは連れて帰る」というガイドブックのページに載っているのは犬や猫についてのことで、果たしてウサギがどうなのかまではわからない。あれこれ調べ、ようやく輸出の許可、飛行機の確保、日本での検疫の3つが必要であることがわかった。
輸出の許可は書類の提出と獣医の診断で下りる。日本での検疫もウサギの場合、成田で1日泊まれば済むようなので、問題は飛行機の確保である。
今回はサービスがいいと評判の、A航空会社のチケットを先ず予約した。ところが2週間ほどして旅行代理店からA航空ではペットの空輸はできないと言う。なら初めから言ってくれよ。
仕方がないので英国国営のB航空に変更した。やれやれこれで一安心。
しかし、それだけでは済まなかった。あと1週間で帰国、というところになって、B航空が「やはりウサギは乗せられない」と言ってきたのだ。私達が乗る予定の飛行機で大量の魚を運ぶことになっており、ウサギを乗せるカーゴに暖房を入れられないからだという。
冗談じゃない、今頃になって。B航空に電話して抗議したが、あちこちたらい回しされるだけで埒があかない。
帰国後のスケジュールが決まっているため、日程の変更はできない。私達は再度、航空会社の変更を強いられた。
今度は日本のC航空だ。ウサギはOKとなったが、問題は値段。大人の料金はいくらかの差額で済むが、子供の料金は今までの倍額だ。最後の最後まで、色々あるものだ。交渉の結果、差額料金は旅行代理店が負担することになった。
さて、そんな訳で、私達の航空券は出発当日に受け取ることになっている。既にお別れパーティーも済んで、あとは出発を待つのみ。果たして予定通りに帰れるのか、また語る機会があればと思う。
――今回で終了します。
いやあ寒い寒い。毎回「天気が悪い」ばかりで恐縮だが、こればかりはどうしようもない。幸いなことに私の住むフラットのヒーターは絶好調なので、部屋の中にいる分には快適なのだが。
さて、早いもので今年ももう2カ月目。暮れから1月にかけてのセール(バーゲン)の喧騒も収まった。我が家も御多分にもれずセールで緩んだ財布の紐を締めざるをえず、このところは「我が家がイチバン」をモットーにつましい生活を送っている。
ところがここにきて困ったことになった。風呂のお湯が出なくなってしまったのである。
このフラットで暮らすようになってから困ったことが起きたのはこれが初めてではない。洗濯機の排水ができなくなったこともあったし、冷蔵庫の温度調節がきかなくなって凍った缶コーラが破裂したりもした(よく考えると結構危険だ)。
しかし洗濯機が使えなければコインランドリーに行けばよかったし、冷蔵庫は凍って困る物を入れなければ済んだ。
だが、お湯は困る。銭湯があるわけでもなく、加えてこの寒さだ。
とりあえず、大家の代理人に電話してみると、「そのボイラーねえ、冬になると調子悪くなるんだようねえ」と、のんきなことを言う。電話の後ろでは奥さんが「ナベ!ナベ!」と叫んでいる。どうやら、鍋でお湯を沸かして風呂に入れろと言っているようだ。
仕方がないので言われた通りやってみたが、鍋で1度に沸かせるお湯の量などたかが知れている。電気ポットも総動員して沸かし続けること1時間。どうにか「風呂」と呼べるようになった。
とは言っても洗い場のない西洋式の風呂のこと、溜めたお湯で体も頭も洗うしかない。どうにもさっぱりせず、水のシャワーに挑戦してみた。「心頭滅却すれば火も又涼し!」と唱えてみた(逆だが)ものの、やっぱり寒いものは寒い。結局1度きりで断念した。
そんな「風呂」で10日ばかり過ごすと、これはもうボイラーの修理を頼むしかない、という結論になった。ボイラーの修理は費用がかかり、大家が嫌な顔をするのは目に見えていたが(こうした費用は通常大家が払う)、そんなことを気にしてはいられない。
予想に反して、修理会社のエンジニアは、頼んだその日のうちにやってきた。そして問題の部品を交換すると、あっけないほど簡単にお湯が出るようになった。ただ、我が家のボイラーは年代物であるため、そのうちお湯とヒーターの切り換えスイッチも交換しなければならなくなるだろう、と言って帰って行った。
その後、お湯はじゃんじゃん出ている。じゃんじゃん出過ぎて、シャワーの温度が下がらない。件の切り換えスイッチも早速具合が悪くなったが、ボイラーの横を引っぱたくという、かみさんが編み出した必殺技でなんとかのりきっている。
イギリスの冬は人間の知恵との戦いらしい。
(ロンドン在住)
冬がやってきた。ロンドンの冬、というと霧が思い浮かぶが、「霧のロンドン」と聞いて想像していたほどの濃霧にみまわれることはほとんどない。
昔、家庭の暖房に石炭が使われていた頃は、その煤が霧の原因となっていたらしいが、スチーム暖房の普及した現在ではもはやそういうことはない。霧が出ることも勿論あるが、日本と同じ程度にすぎない。
とは言うものの、ロンドンの冬が暗い事に変わりはない。どんよりとした天気が続き、夜明けは遅く、日暮れは早くなる。そんな季節の最大の楽しみといえば、何と言ってもクリスマス。今年も、すぐそこまで近づいてきている。
この時期になると街中にクリスマスの匂いがあふれてくる。ショー・ウィンドーは美しく飾り付けられ、デパートやショッピングセンターは買い物をする人々で大盛況だ。
クリスマスツリーやカードのコーナーは、さながら日本のデパートの御歳暮売り場で、うんざりするほど混んでいるのに、「じゃ、やめた」というわけにもいかず、みんな粛々とレジに並ぶことになる。
クリスマス当日は、というと、これは至ってオーソドックスに過ごす。家族や親戚が集まって、七面鳥の丸焼きなどのご馳走を食べるのが普通だ。クリスマス前に賑わっていた街中は、火が消えたように静かになる。
というのも、街中の店が閉まってしまうからで、もちろん、レストランも休み。さらに、25日は地下鉄やバスも全てストップしてしまう。これでは家で過ごさざるをえないと言ったほうが正しいかもしれない。
昨年、ロンドンで初めてクリスマスを迎えた私は、本当に「みんな休み」かどうか自分の目で確かめたくなり、わざわざ車で市街地まで行ってみた。結果、みんな本当に休んでいた。こういう時に働いて儲けよう、という輩もいるかと思ったのだが。
東京の表参道のようなイルミネーションがあるわけでもなく、日本の華々しいクリスマスに慣れている目にはゴーストタウンのように映った。
であるから「本場のクリスマスを」などと言って、この季節に旅行に来ると、まるで冬眠中のような街にがっかりすることになる。レストランなど、平気で1週間くらい休んでしまう所もあり、あてが外れてしまう。
「ロンドンのクリスマス」は、一言で言うなら「家族の日」だ。家を飾り、プレゼントを贈り、皆で乾杯する。そして、クリスマス休暇が終わると、ご馳走太りを気にしながら仕事に戻ってくる。
人々がクリスマス休暇の間、家の中でため込んだエネルギーはどうするか、というと、これにもまた使いみちがある。27日頃の休み明けから始めるバーゲンセールである。
クリスマスが心暖まるものならば、こちらは心熱くなるものだ。が、その話はまた別の機会に。
(ロンドン在住)
あまり馴染みのない言葉であるが、イギリスにオー・ペアというシステムがある。これは、元々はイギリスの上流家庭でヨーロッパの娘さんを家族の一員として預かり、英語と礼儀作法を学ばせる制度であった。
オー・ペアという言葉はフランス語で「互いのサービスを交換する」という意味であり、勉強させてもらうかわりに娘さんは簡単な家事や子供の世話をするのである。
さて、現在でもこのオー・ペアというシステムは残っているが、昔とは多分に変わってきている。例えば、今日では、オー・ペア・ガールは上流家庭ではなく中流家庭に滞在するのが普通だ。
というのも、このシステムの性格がいわゆるノーブレス・オブリジェ(高貴なる人の義務)からビジネスライクなものに変わってきており、外国子女の教育というよりは、「サービスの交換」が主目的となってきているからだ。
そしてそれにともなって勉強の対象は専ら英語のみとなってきている。
というわけで、現在オー・ペア・ガールが滞在するのは、両親が共働きでベビーシッターが必要な家庭や、家事の手が欲しいという家庭が多い。
迎える家庭にしてみれば、専門のベビーシッターや家政婦を雇うよりも経済的である。生活費などの面倒は見なければならないとしても娘が1人増えた、程度の出費で済む。
また、オー・ペア・ガールにとっても、多額の留学費用をかけることなく、朝晩家の手伝いをするくらいでイギリスで勉強できるのであるから大変魅力的だ。
とはいうものの、現実にはやはり良いことばかりでなく、「こんなはずじゃなかった」という問題が当事者双方に起こってくる。
一方いわく、決められた仕事をしない。子供にテレビばかり見せる。部屋に友達を呼んで騒ぐ。他方いわく、約束したよりも仕事が多い。お小遣いが少ない。子供が言うことを聞かない等々。
どんな仕事であっても不平・不満が出るのはつきものであるが、オー・ペア・システムの場合、そこで働く女性(最近は男性も増えてきているようだ)が被用者と家族の一員との中間に位置しているため、問題がややこしくなるのだとも言える。
このように、問題点があるものの、留学者にはなおメリットのあるシステムだと思われる。その最たるものは、語学の上達が早いということだ。
何しろ家ではずっと英語だ。せっかく語学学校に入ったものの、寮に帰ると日本人の友達と日本語ばかり話している、という状況とでは、同じ期間の滞在でもその成果は当然大きな差が出てくる。
ともすると単なる「安上がりのメイド」という扱いを受ける恐れもあるが、言うべきことは言い、自分に合った家庭にめぐり合えれば、これほど真の「英国生活」を体験できる機会もない。それは全て自分次第だ。
(ロンドン在住)
ある晴れた午後のこと。私が書斎で調べものをしていると、かみさんがぷりぷり怒りながら帰って来た。英語学校に行ったはずだが、何があったのだろう。
それはこういうことだった。今朝、彼女は信号待ちをしていて、後続車に追突されたのである。とは言っても、バンパーにこつんと当たった程度だから、「大丈夫ですよ」と言ってやるつもりだったらしい。
ところが、いくら待っても相手が出てこない。堪りかねたかみさんが抗議にいくと、開口一番「何か問題あった?」との台詞。「あんたね、謝るのが先でしょ!」と怒鳴り付けると、やっと言ったらしい。
「ソーリー」
これは多分に幼い頃からの教育の違いだと思われるが、イギリス人はなかなか謝らない。道でぶつかったり、ちょっと失敬、という程度の場合には、惜しみなく「ソーリー」を口にするが、問題なのは肝心の時だ。
仕事でミスがあった時、遅刻した時、そして交通事故の時。確かに後々のことを考えるとやたらと謝らないほうがいいのかもしれない。しかし、大の大人が潰れた車の前で向かい合って、首を傾げて両手の平を上に向けた「ワカリマセーン」のポーズをとっているのは何とも阿呆らしい。
私の感覚からすれば、謝ったほうが潔いんじゃないの、ということがしょっちゅうだ。それでも平然と苦しい言い訳をあれこれ申し立てている様子を見ると、謝るという一つの行為にも文化の差が見えてくる。イギリス人にとって謝ることは敗北。自ら負けを認めるということなのだ。
ところで、ここぞという時に出し惜しみされるこの文句。実は大変便利な言葉でもある。
そのうちの一つは、相手の言葉を聞き返す時。「ソーリー」の語尾を上げて発音すると、「すみません、もう1度言っていただけませんか」という意味になる。ちなみにこれはイギリス英語。アメリカ英語では「パードン」の方が主流らしい。
そしてもう一つは憐憫の情を表す時。日本語で言えば「それはまあご愁傷さまで」というようなものだ。
というわけでこの言葉は大変便利なのだが、それがかえってあだとなることもある。
以前、会社にアメリカ人の同僚の御母堂の訃報を知らせる電話がかかって来た時のこと。生憎本人が不在だったため私が承ったのだが、お悔やみのつもりで「アイム・ソーリー」と言うと、相手は私が聞き取れない言っていると思ったらしく、同じ事を繰り返して言う。
こちらも負けじと大声で同じ言葉を繰り返すのだが、どうしても駄目。何度が問答を繰り返すうちに、どうにも通じないと悟り「分かった」と言うと、あっけなく電話はきれた。
何事も一つ覚えでは駄目なようで、そういう時は「アイム・ソー・ソーリー」と言うのだと聞かされたのは、それから暫く経ってのことである。
(ロンドン在住)
早朝のロンドンの住宅地。人々がベッドから起きかけるその頃。耳を澄ますとカタカタといつもの音が聞こえてくる。音の主はミルクマン。牛乳配達のおじさんである。
イギリスでは、スーパーマーケットなどの小売店に押されてきているとは言うものの、まだまだミルクマンが健在である。小型トラックほどの大きさの牛乳配達専用車に、ガラスビン入りの新鮮な牛乳。ミルクマンは静かにやってくる。
ミルクカートと呼ばれるこの車、実は電気自動車である。なるほど、これなら音が静かで、早朝の住宅地での仕事にうってつけというわけだ。
隣人は引退した元ミルクマンなので、ねえそうでしょうと尋ねてみた。
「そうだよ。それも電気自動車を使う理由の一つだ。でも、何より大事なのは安上がりってことさ」
少し走ってはあっちの家、次はこっちの家と回っていくミルクマンの車にスピードはさほど要らない。1日仕事をして夕方になると充電。電気代はガソリン代とは比べ物にならないほど安いそうだ。
「元々は大きな缶に入れたミルクをリヤカーで引っ張って配って歩いたものさ。お玉ですくってビンに入れてやるんだ。今はもう衛生上の理由や何やらでそんな風にはできないけどね」
おじさんはミルクマンという仕事に誇りを持っていて、聞いている私まで気分が良くなってくる。
「ミルクマンって言えばね、地元の有名人だったんだ。どこの家でも知っている。それに仕事の手伝いに地元の子供を雇うから、その子が大きくなるとまた知っている家が増えるってわけさ」
さすがにこの頃は昔とは違うが、それでもミルクマンのお得意は多い。そして肝心の牛乳の味であるが、これは文句なくうまい。
元々イギリスの牛乳はこくがありうまいのだが、ミルクマンのビン入り牛乳はさらにうまい。エキストラ・シックと呼ばれる一番濃厚なやつなど飲むと、気分はもう牧場にひとっ飛びだ。
おじさんは私がミルクマンの話に関心を示したのを快く思ったらしく、特製のお茶(もちろんミルクティーだ)をいれてくれた。
「いつもながら美味しいですねえ。今日のは特に美味しい気がします」と言うと、おじさんはにっこりしてウインクして見せた。「そうだろう。今日はね、フルファットなんだ。いつもはセミ・スキムトだから」
フルファットというのは普通の牛乳、セミ・スキムトというのは低脂肪乳のことだ。おじさんは体重がゆうに百キロを超えており、普段は奥さんから低脂肪乳を使うよう言われているらしい。
「内緒だよ」と小声で言うと、おじさんはうまそうにお茶をすすった。
ミルクマンに限らず、イギリスには古き良きものがたくさん残されている。いつかはイギリスを離れる身にも、変わらずあって欲しいと思わせる何かが、ここにはある。
(ロンドン在住)
私がロンドンに来ることになった時、「車があるといいぞ」と言われたのは一度ではない。その言葉を鵜呑みにしたわけではないが、結局、私は渡英後間もなく車を購入した。子供の幼稚園の送り迎えに車が不可欠だったためである。
しかし、考えてみればロンドンという都市は地下鉄・バス網が発達しており、しかもその中心部は東京よりもずっと狭い。かの有名なダブルデッカーと呼ばれる2階建てバスに飛び乗って大抵どこにでも行けるし、タクシーの評判もすこぶるよい。そんな街で「車がいる」というのはどういうことなのだろうか。
その理由は人々の生活に関わりがある。
まずは買い物。日本と違い自転車はバイクと同じように車道を走らなければいけないため、混雑したロンドンの道で子供を乗せた母親が自転車で買い物、などという光景はまず見掛けない。
スーパーでの買い物と言えば車だ。スーパーマーケットには広い駐車場が備えられており、1週間に1度まとめて食料の買い出しをするというのが一般的である。
そして理由のもう1つは休日の過ごし方である。
休みの日に家族皆で車に乗って郊外に出掛けて行くのも「ロンドン型休日の過ごし方」の一つだ。ロンドンから車で1時間も走れば、そこには美しい田舎の風景が広がる。
また、子供が小学校を出るまでは必ず大人が送り迎えしなければならず、ここでも車を必要とする人は少なくない。
そんな訳で、ロンドンで車に乗るというのはごく普通のことだ。若いお兄ちゃんはもちろん、かなりお年を召したご婦人まで、様々な人が車を運転している。
ところで、ロンドンで車に乗るべしとお薦めする最大の理由は、ロンドンでは車を維持するのが非常に簡単だということだ。一般的な住宅地では家の前の道路を駐車場がわりに使える。つまり、駐車場が要らない。
また、車検もゆるい。だから一家で数台、あるいは1人で何台もの車を持つのだって特に大変なことではないのである。
車に乗るというのはあくまでも生活の一部であり、金持ちはゴージャスな、普通の人は普通の、お金のない人は実にぼろい車に乗っている。つまり、皆自分の身の程を知っている。だから、人より良い車に乗ることで幅をきかそうなどという輩はごくわずかだ。
ただ、環境問題などを考えると、あまり車検がゆるいのは如何なものかと思うが。
こういったこともあり、私はロンドンでのカー・ライフを満喫している。
もちろん「紳士の国イギリス」といえども、すべてのドライバーが紳士(あるいは淑女)であるわけではない。ドライバー同士がちょっとしたことで指を立てて罵り合っているのもよく目にする。
しかしなお、ロンドンの運転マナーは比較的良く、今日も沢山の車が夏の日差しの中でドライブを楽しんでいる。
(ロンドン在住)
ご存知の方も多かろうが、英国は「背広」という言葉の語源の地であるという説がある。
ロンドンの中心地の一角に「サビル・ロー」という名の通りがあり、その一帯がビスポークと呼ばれる仕立ての紳士服を作る店で占められている。そこから「サビル・ロー」転じて「背広」となったというわけだ。
さて、私は背広の持つ凛々しさが好きである。せっかく背広の本場にいるのだから、「サビル・ロー」に店を持つような老舗に足を向けるのもいいかと、かのチャーチルも愛用した王室御用達の某店に出向いてみた。
元々は仕立て品の店とはいえ、仕立て服は値が張る上に時間がかかることもあり、現在ではオフ・ザ・ぺグと呼ばれる既製品を扱う店が多い。既製品とはいっても縫製などは仕立て品と比べても遜色なく、値段も普通の吊るし服の比ではない。
普段はいわゆるブランド品にはさして興味のない私であるが、体にぴたりと馴染む服にすっかり惚れ込み、思い切って一着購入することにした。
ところが嬉々として家に帰った私は思いがけないものを発見した。鏡の前で試着しながらポケットに手を入れたところ、実際に払った額よりも1万円ほど安い値段を記した値札が出てきたのである。確かショーウインドーで見た値段は払った額と同じだったはずだと思ったものの、念のため店に電話を入れた。
電話を受けた店員は私の話に驚き、すぐ調べ直してくれた。彼は再び電話に出ていうには、正しいのは私の払った値段だが、間違った値札とつけたのは店のミスなので、差額は返すという。
少々見栄っ張りの私は「いやいや、いいですよ」と喉元まで出かかったものの、本当に返金するつもりなのか見てみたいという気持ちに押され、それを押し留めた。
そして後日、他の買い物のついでに店を訪れた。今回はお金をもらう立場なのに、店員の丁寧な態度は先日と少しも変わらない。それどころか「嫌な思いをさせて本当に申し訳なかった。こんなことをした者は責任を取らせないと」と終始低姿勢を崩さない。
今まで英国で有数といわれるデパートでも店員の態度がお粗末なのに慣れていたため、私はひどく驚いた。店員の「又のお越しをお待ち申しております」という笑顔に見送られ、私はいい気分で店を後にした。
こうして私は一着のお気に入りの服を手に入れた訳であるが、それとともに「老舗」という言葉の意味も学んだように思う。品物の質がいいのは勿論であるが、それだけでは足りない。
たとえ少し損をしても、店の信用を大事にする。客は品質だけでなく、いろいろな場面で「素晴らしい買い物をしている」という気分を味わえる。それが長年かかって培われて初めて「老舗」となるのであろう。
「老舗」の値段は確かに高い。しかし1度味わうと癖になる味を持っているのも確かである。
(ロンドン在中)
さて、ゴールデンウイークも終わった。今年も国内での帰省、旅行のみならず、たくさんの方が海外旅行に出掛けられたことと思う。
イギリスでも近隣の国々への旅行が大変盛んで、なかでも特徴的なものに「地中海ホリデー」と呼ばれるものがある。これは飛行機、ホテル、食事と三拍子そろった、いわゆるパック旅行である。
個人主義の色が強いといわれるイギリスでパック旅行とは、なんとなく意外な気もするが、何が人気のもとなのかという興味もあり、私も旅行会社へ出向いて色々と資料をもらってきた。
パンフレットを開いてまず驚くのは、旅行期間が画一化されていること、最低で1週間、それ以上の場合は1週間単位で増やすことになっている。
こういったパック旅行では、飛行機も旅行会社のチャーター便なので、こうすれば飛行機もホテルも空きが出ない。その分値段がべらぼうに安いのだ。
そんなわけで、妻もすっかり乗り気になってしまい、いらまさ「見ているだけ」とは言えなくなってしまった。
あれこれ検討した結果、私達の選んだのはスペイン南東部の海岸、コスタ・デル・ソルー4泊朝・夕食付きというもの。太陽の海岸という名のこの地方は、四季を問わず人気のある旅行先の1つである。
いざホテルについてみると、4月というオフシーズンであるにもかかわらず、日差しは焼け付くほど強い。天気が好ければ若者もお年寄りも皆プールサイドやビーチで日光浴。本を読んだりトランプしたりして日がな一日のんびりするのが定番らしい。
この点、パック旅行と聞いて初めに頭に浮かぶ忙しい旅行とは趣を異にしている。近隣の町の観光などのオプションもあるが、基本は何もしないこと。文字通り1日中のんびりして、お腹が空くとワインを片手に地中海料理に舌鼓みと打つ。
ところで、日本人が地中海ホリデーのような海外旅行をする機会はあまり多くないと思われる。それはせっかくの海外旅行だから、ということだけではない。日本人と、イギリス人を始めとするヨーロッパの人々では、太陽信仰の度合が違うのだ。
日本では冬でも日照時間が長いせいか、若者はともかく、中年あるいはそれ以上の人々が1日日光浴する、というのはあまり聞かない。また、体に良いことをする、というのであれば、日光浴より温泉を選ぶだろう。
私の受けた印象としては、地中海ホリデーは日本人の温泉旅行に似ている。そう考えると、ヌーディストビーチさえ、とても身近なものに思えてくるから面白い。
安くて便利なパック旅行で気軽にのんびり。行き先は違えど、どの大本ににあるものは案外同じなのかもしれない。
夕食後、「これで温泉があったら最高なんだけど」とは妻の弁。ちょっと欲張りすぎか。でも、同感。
(ロンドン在中)
今回はイギリスの政治について少々。
イギリスでは有名な保守・労働の二大政党の他、第3党の自由民主党やウェールズ・スコットランドなどの地域政党も結構がんばっている。
特に選挙の前は議員だけでなく、立候補予定者までもがテレビの討論番組に登場し、それぞれの政策をぶつけ合う。
イギリスでは、政治の中心はそれぞれ独自の政策を掲げる政党なので、彼らは司会者のあらゆる角度からの質問に対応し、政党の政策を説明する。この点、所属政党の選挙公約さえ読んでいない候補者もいる日本の選挙とはだいぶ違う。
もちろん、保守党と労働党の政策が似通ってきている、との指摘は以前からあるし、地域政党が活躍するのは、イギリスがイングランド・ウェールズ・スコットランドなどの連合体である、という事情にもよるだろう。
それでも、政党が政策本位で勝負しようとする姿勢は、議会の討論の様子からもうかがわれる。
それゆえ、テレビの議会中継は面白い。役人が書いた想定問答を読みあげる議員を映す日本の国会中継とは違い、時にジョークを飛ばしながら、丁々発止と議論を戦わす様子は、下手なドラマより見ごたえがある。
第一、ほとんどの議員が想定問答どころか、紙切れすら見ずに質問・答弁をする。首相は大きなファイルを携えて答弁するが、あまりそれに目をやることはない。
イギリスでも資料を作っているのは役人だろうが、議会で与党と野党の政治家が向かい合って議論する姿は、私には新鮮であった。
国会議員の知人がいないが、友人の父君が私の住んでいるロンドンのカムデン区議会の労働党リーダー(議長)なので、何度かお宅に伺って話を聞く機会があった。
彼はケンブリッジ大卒のいわゆるエリートであるが、初めて選挙に出たのは22歳の時だそうである。もっとも「保守党が強い地域だから、とても勝ち目はなかったけどね」と言っていたが。
このように若い政治家志望者は党員としての経験を積んだ後、まず難しい選挙区で党の候補とされるのが通常のようだ。
したがって、自分の選挙区に住んでいない国会議員も多い。基本的には政策を理解し、また議会の討論に耐えうる者が立候補者として選ばれることになっている。
こうやって見てくると、イギリスの政治は何だか理想的にも思えてくるが、こと政治家のスキャンダルになると、この国も例外ではない。特定業界からの献金疑惑が持たれている議員たちや、ホステスとの浮気が明らかになった議員など、スキャンダルにはこと欠かない。
政治の流儀には違いがあるし、日本には日本しかない政治があるはず。日本の政治がダメだとは全然思わない。
ただ、永田町よりロンドンのウェストミンスターの政治の方が見ていて面白い、ということは言えそうである。
(ロンドン在住)
先日、近所のイギリス人の家でパーティーが開かれることになり、私達家族にもお誘いの声がかかった。
何でも、美容師をしているお姉さんが、カリブ海クルーズの船上美容師として8カ月間の航海に出発するので、その前にお別れ会をするらしい。妻は彼女が働いている美容院にいつも行っており、家族ぐるみの付き合いをしていたので、喜んで参加させていただくことにした。
当日に、「ちょっと寄って」というお誘いの言葉に従い、気楽な気持ちで出かけたところ、いるわいるわ。我が家と同じ間どりの2ベッドルーム・フラット(日本でいう2LDKアパート)に、少なくとも20人からのお客がいる。
その家の奥さんのサリーが私達にいろいろな人を紹介してくれるのだが、「いとこの子供」ぐらいまではともかく、「娘のボーイフレンドの母親のボーイフレンド」だのなんだのになると、もうお手上げである。私も妻も頭を悩ませるのはやめることにした。
何しろイギリスは離婚率が高く、昨年結婚したカップルの10組中4組が、既に離婚の危機に瀕していると言われており、人間関係がたいそう入り組んでいるのはごく普通のことらしい。
さて、一通り挨拶を済ませ、私達は料理をいただくことにした。日本で読んだガイドブックには「イギリスの食事はまずい」と書かれていたが、いささか疑問である。少なくとも隣家のイギリス人はおいしい家庭料理を食べている。今回のパーティーでもまさに期待通りで、私も妻もあれこれと舌鼓を打たせていただいた。
私達お客が食事をしていると、家の主人のジョージがお酒をのお代わりを勧めてくれる。そのあたりは分業がよくできており、奥さんのサリーは専らお客さんの接待で、裏方は主人が受け持っている。
知人の若い日本人女性は、こういう面からもイギリス人男性はやさしくていいと言っていたが、やさしさだけの問題ではないだろう。イギリスでは家庭の中心は主婦であり、夫婦としても分業も、関係を長続きさせるための1つの要因に他ならない。
また、子供が年頃になると、親は子供を1人の大人として認め、子供自身の選択を尊重する。裏を返してみれば、その分1人1人が大人として自立することが求められるのである。
とはいえ、それは決して親子の関係が希薄であるとか家族の絆が弱いというわけではない。
隣の家族も非常に仲が好く、件の美容師のお姉さんも家を離れるのは初めてだそうで、何だかちょっと淋しそうにもみえる。お母さんのサリーは、彼女は「ホーム・パーソン」なのだと言っていた。直訳すれば「家っ子」ということであろうか。
パーティーの夜は更けていく。みんなあちらこちらで勝手なことをしゃべっている。でもたった1つ共通の話題がある。
それは、お姉さんの航海の無事を祈ることである。
(ロンドン在住)
ロンドンで暮らし始めて間もない頃のことである。我が家のテレビの映りが悪くなり、困った私は早速、テレビのレンタル会社に連絡した。
こうこうこういう訳で…と説明すると、来てくれるという。昼間は外出しているので夕方4時半ごろ来て欲しいと言うと、途端に駄目だという返事。「いいかい?夕方は働きたくないんだよ」
初め私は憮然とした。外国人だからとなめられているのかと思ったが、話してみるとどうもそうではなく、電話の向うの彼は大真面目である。夕方は家に帰って、家族と過ごす時間。そんな時間に他人の家に行きたくないというのは、彼にとって当然のことらしかった。
ロンドンに来て私が学んだことの1つが、この「お客様は神様ではない」ということである。どこの店に行っても閉店の15分前ぐらいになると、店員はさっさと後片付けを始める。金曜日ともなると、鼻歌なんか歌ってたりする。そして閉店時間きっかりに店のドアを閉めて帰ってしまう。
長年、便利な国日本に住んでいた身にとって、早く閉まる店(ほとんどの店は日曜・祭日は休みである)、客が待っているのに悠々とお茶を飲んでいる店員などというものは、初めはイライラのもとでしかなかった。しかし、それは裏を返してみれば、イギリス人は私生活を大事にしているということである。
私たち家族が住むフラット(日本でいうアパート・マンション)の隣人も、いつ仕事しているのかと不思議に思うほど、ゆったりした生活をしている。仕事以外の時間は家の壁紙を張り替えたり、夏には裏庭のテラスで家庭でのんびり酒を飲んだりしている。
回復傾向にあるとはいえ、生活の実感から言うとイギリス経済は華やかさからは程遠い感じがする。しかし、たとえ経済が停滞していようとも、1人1人が持っている心の豊かさはどうだろう。彼らにとって、仕事はあくまでも生活の一部であり、仕事イコール人生ではないのである。
私も渡英してからは、日本にいた時とは比べようもないほどのんびりとした生活をしており、こうして2国間の違いを観察する機会にも恵まれたが、日本にいた頃は毎日、深夜までの残業の、とてもゆとりがあるとは言えない暮らしをしていた。
確かに、仕事というのものは単に生活の糧を得る手段なのではなく、私も含めて多くの人がそこから様々な達成感、充実感を得ている。しかし、私たちの人生にはたくさんのページがあり、仕事という1ページだけを眺めて一生を終えるのでは、なんとももったいないのではないだろうか。
ゆとり、ゆとりと唱えていると、壊れたままの信号も、いつまでも工事中の道路も、あまり気にならなくなってくる。他人のことに寛容になるということは、実は自分の心のゆとりにつがなるということに改めて気付きながら、信号の壊れた交差点を気を付けて渡る今日この頃である。
(ロンドン在住)
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